ブルーインパルスって何のために存在するんだろう?
「青い衝撃」の名の通り、一度見た人の心に衝撃を与え、多くの人々を魅了するブルーインパルス。
航空祭で華麗なアクロバット飛行を披露し、日本中に感動を届けていますが、ブルーインパルスの存在にはどんな意味があるのでしょうか?
この記事では、ブルーインパルスの存在意義、誕生秘話から歴史に隠された意外な背景、そして現代までを解説します。
知ればもっと航空祭やブルーインパルスが楽しくなるはず!
ぜひ最後までお読みください。
【ブルーインパルスは何のために存在するの?】航空自衛隊の存在を多くの人に知ってもらうため
ブルーインパルスの正式名称は、宮城県東松島市にある松島基地 第4航空団に所属する「第11飛行隊」
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航空自衛隊の公式ホームページ「ブルーインパルスとは」を見ると、このように書いてあります
航空自衛隊の存在を多くの人々に知ってもらうために、航空自衛隊の航空祭や国民的な大きな行事などで、華麗なアクロバット飛行(これを展示飛行と呼びます)を披露する専門のチーム、それがブルーインパルスです。
航空自衛隊公式ホームページより引用
ブルーインパルスは、国民に航空自衛隊の活動を理解してもらうために存在しているんだね☆
航空祭や記念イベントでの華麗な飛行は、多くの人々に感動を与え、航空機の魅力を伝える大切な役割も担っています
【ブルーインパルスは何のために存在するの?】誕生から現在までを解説
ブルーインパルスは、航空自衛隊のアクロバット飛行チームとして、1960年に誕生しました
ここでは、ブルーインパルスが使用してきた3世代の航空機「F-86F」「T-2」「T-4」時代に分けて、ブルーインパルスの歴史を振り返ります
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①F-86Fセイバー:ブルーインパルスの黎明期(1960~1981年)
ブルーインパルスの物語は、F-86Fセイバーの導入とともに幕を開けました。この機体は、アメリカから供与された戦闘機で、航空自衛隊の黎明期を支えた象徴的な存在です。
F-86Fセイバーは日本では「ハチロク」という親しみを込めた愛称で呼ばれたよ
その頃、ハチロクのパイロットたちはアメリカに留学し、現地で米空軍のアクロバットチーム「サンダーバーズ」の華麗な飛行を目の当たりにしました。この体験がきっかけとなり、「日本にも自分たちのアクロバットチームを作りたい」という夢が芽生えます。
しかし、その道のりは平坦ではありませんでした。
当時の防衛庁では、「曲技飛行は不要」という否定的な意見が多く、現場との温度差がありました。それでも情熱を持ったパイロットたちは、1958年頃から米空軍の指導を受けながら、国内で秘密裏にアクロバット飛行の訓練を開始します。その成果は防衛大学校の卒業式などで少しずつ披露されていきましたが、正式なチームとして認められるまでには長い時間を要しました。
そこに現れたのが、1959年に航空幕僚長に就任した源田實氏です。源田氏は、1943年に横須賀航空隊分隊長となり、献納式などで編隊によるアクロバット飛行を実施。「源田サーカス」とも呼ばれ、国民に愛されるチームに。
源田氏という強力な援軍を得て、創設準備は進みます。
1960年3月4日には浜松基地で「審査会」が行われ、見事合格。記念すべき第1回目の公式展示飛行としてカウントされています。同じ1960年4月12日に原田氏も視察し、4日後の4月16日に「空中機動研究班」が作られます。
8月1日に部隊名が「特別飛行研究班」に改称。愛称は「天竜」とする意見もありましたが、非公式時代のコールサインが「インパルス」だったことから「ブルーインパルス」に決まりました。
「天竜」をコールサインとして使うと、無線交信時に聞き取りにくいんだって
この時のハチロク・ブルーの機体は、通常の銀地のまま。転機は1963年、映画「今日もわれ大空にあり」に、ブルーインパルス撮影協力したのがきっかけでした。映画会社側のデザイナー側が青と白のカラーリングを提案。実際に塗装され、今も続くブルーインパルスカラーの原点となりました。
F-86F時代のブルーインパルスは、1964年の東京オリンピック開会式で見事なパフォーマンスを披露しました。この際、空に五輪マークを描くという大技を成功させ、日本中に感動を与えます。この歴史的な飛行は、ブルーインパルスの名を広める大きなきっかけとなりました。
1965年11月20日、ブルーが所属していた第2飛行隊が解散。第1飛行隊に移籍し、「戦後研究班」に改称されました。
1979年のF-86F引退とともに、第1飛行隊が解散。第35教育飛行隊に編入されました。
栄光の裏では厳しい現実もありました。曲技飛行は高度な技術を必要とし、訓練中や展示飛行中に事故が発生することも。
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痛ましい事故の経験から、航空自衛隊はより安全性を高めるための訓練方法や機材管理の改善を進めました。
②T-2:日本初の国産ジェット機での挑戦(1982~1995年)
検討の結果、2代目ブルーインパルスの機体は初の国産超音速ジェット練習機 T-2 に決まりました。この機体への切り替えにより、ブルーインパルスはパフォーマンスの幅を広げ、よりスピーディーでダイナミックな飛行が可能に。
1979年、機体予算が計上されます。1980年10月に機体デザインが一般公募され、翌年1月に女子高生4人の合作デザインが採用されます。
深いブルーが特徴的なカラーリングだよ☆
1982年1月12日、第4航空団第21飛行隊に「戦技研究班」が新編され、T-2ブルーインパルスが正式に誕生。
T-2ブルーの展示飛行は迫力に満ち溢れており、観客を魅了しました。離着陸時などにアフターバーナーを使用した際、後部のスモークパイプから出る発煙油が長い炎となる「トーチング」は、T-2ブルーだけの特徴でした。
しかし、1982年の浜松基地航空祭で墜落事故、1991年に金華山沖での訓練中の事故が起きてしまいます。
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1年間の活動自粛の後にブルーインパルスは活動再開、1994年には米空軍のアクロバットチーム「サンダーバーズ」が来日。三沢基地航空祭で共演を果たしました。
「サンダーバーズ」はブルーインパルス誕生のきっかけのチームだったよね☆
1995年の12月、「第4航空団第21飛行隊戦技研究班」は解散します。
③T-4:現代のブルーインパルス(1995年~現在)
1995年、ブルーインパルスは機材を現在使用している T-4 に変更しました。この国産中等練習機は操作性と燃費に優れ、安全性も向上しています。青と白を基調とした美しいデザインは、ブルーインパルスの象徴となっています。
T-4を使用する現在のブルーインパルスは、航空祭やイベントで「サクラ」や「スタークロス」などの美しい演目を披露しています。
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また、2020年の新型コロナウイルス感染症拡大時には、医療従事者への感謝を示すために都心上空を飛行し、多くの感動を呼びました。
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ブルーインパルスは、航空祭だけでなく、日本の国際的イベントでも重要な役割を果たしており、その存在意義はますます広がっています。
【ブルーインパルスは何のために存在するの?】誕生から現在までを解説 まとめ
この記事では、「ブルーインパルスが何のために存在するのか」とブルーインパルスの誕生から歴史までをお伝えしました。
ブルーインパルスは、「国民に航空自衛隊の活動を理解してもらうため」に存在しています。
ブルーインパルスの美しい飛行には、航空自衛隊の使命や誇り、そして観る人々に感動を届けたいという強い想いが込められています。
これからもブルーインパルスは、私たちの心を奪い、未来への希望を描いていくでしょう
航空祭やイベントに訪れる機会があれば、ブルーインパルスの飛行をぜひその目で確かめてみてください。
60年以上の歴史が生み出した空の芸術を体感できるはずです!
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